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日仏外交裏面史:メルメ・カション
宣教師メルメ・カションはパリ宣教師会の指令により1855年仲間とともに、琉 球にまず上陸し、飲まず食わずから、自給自足へと神のお導きで、ようやく村 民と接近することが出来た。その後日本語を習い漢字を習得し、通訳翻訳が出 来るようになり、次第に日本本土へと上って行った。宣教師としての真摯な姿 勢が彼の能力をわずかずつ進化させたのだろう。その能力の拡大が彼を外交の 舞台へと導いたというわけだ。これはすべて神の手によるものだった。日仏外 交の舞台へ進み、野心を彼に持ったことが、喜びと悲哀を同時に生んで行く。 日本語ができると、日本女性との接点も生まれる。そこで遭遇したのが、お梶 という女性。寺の堂守の娘、お梶。宣教師のカションが、出合った女性が寺の 堂守の娘というのも不思議だ。二人は同棲へと進むがこれは事実上の結婚。し かし国際結婚は御法度の時代だけに、表面上は同棲にすぎないが本人同士は結 婚と認識していた。結局、カションがロッシュ公使の片腕として活躍し、外交 官になったのだが、その頃にお梶は病により亡くなる。カションの明るい運命 と暗い運命はまるで、羽織の裏表のようについてくる。実際カションの人生は 明と暗が交錯する。お梶を失ったカションは、失意であるが、仕事もあるため にフランスへ一旦戻る。たまたまパリ万博への幕府の出展のこともあり、彼自 身は自分の活躍を信じていたのだが、その期待は見事に裏切られ、その後の彼 の外交舞台はなくなる。一説にはニースで身投げしたという情報がある。彼の 墓は宣教師会を脱退したためか、世界のどこにも記録がなく、現在彼の最後を 正確に記したものは見当たらない。日本に最初のフランス語学校を建て、日本 の近代化に必要な横須賀製鉄所を建設などの企画をロッシュと共に成功させた など、日本の繁栄の礎を築いたともいえるカションの最後がどうであったのだ ろうか?貿易商として上海で暮らした、という情報もあるが、幸せな最後であ った、と信じていたい気がする。 カション関係年表 1828年9月10日カション生まれる 1852年7月11日カション、パリ外国宣教会神学校に入学 1854年4月1日司祭となる 1854年3月日米和親条約調印 8月25日カション、アジアに向け出発 1855年2月11日カション、ジラール、フューレと共に琉球へ 1857年7月日蘭、日露、日英修好条約それぞれ締結完了 1858年8月9日グロ男爵と共に下田に来航 1864年3月22日ロッシュ来日。カションを通弁官として起用。 11月10日横浜仏語伝習所開校 1866年カションパリ宣教会離脱 1867年パリにて、ナポレオン第三世皇帝に徳川昭武謁見、カション通訳として 陪席す。 1871年カション、ニースにて死去。(享年42歳) (資料:メルメ・カション、有隣新書、富田仁著)
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最終更新日2007年2月7日