NICHIFUTU GAIKOUSHI KENKYUKAI
フランス遣日航空教育軍事使節団第2部
株式会社セリック創業社長 クリスチャン・ポラック
第2部大空の英雄 明治45年(大正元年―大正7年)
フランス、日本初の航空隊編成に協力する1912年(明治45年、大正元年)は、日本にとって転機の年となる。
日本領土および台湾、朝鮮半島といった植民地の保全の観点から航空技術は戦略上大いに魅力的であり、政
界、軍部の指導者たちはその重要性を意識し始める。航空隊の編成にあたり、日本は主に同分野で先進国の
フランスに機材、実技の両面で支援を要請する。フランスはアジアにおける自国の利益を考え、新興勢力で
ある日本帝国をアジア地域での特権的パートナーと捉え、この求めに応じることにする。この決定に至った
理由は当時の外交的文脈から説明がつく。フランスはこうした同盟精神に基づき、まず徳川好敏に続く新た
な日本人パイロットの養成を、次に初期の航空隊編成に必要な機材の提供を承諾する。これを契機にフラン
スから日本への長期にわたる軍事・戦略的産業分野でのノウハウ、技術供与が始まるのである。
1912年、陸軍は所沢基地でパイロットを養成すべく志願制にて人員の選抜を行う。海軍もこれに続き、横須
賀軍港に近い追浜に開設されたばかりの日本初の海軍航空基地に配属するための水上飛行機パイロットを養
成する。同年、7月、陸軍は長澤賢二郎中尉、沢田秀中尉をフランスに派遣する。この2人の士官は1912年11
月、フランスのアエロ・クラブで飛行操縦免許第1112号と第1113号を取得する。さらに彼らは複葉機モーリ
ス・ファルマン1912号型(複座式、ルノー70馬力エンジン)1機と単葉機2機、すなわちニューポール1912
IV-G型と IV-M型(前者は三座式、ノーム100馬力エンジン、後者は複座式、ノーム・オメガ50馬力、重量650
kg、最大時速110km)を発注する。彼らは1913年3月に日本に帰国し、飛行機は同年5月と7月にそれぞれ納入
される。日本で、初めて時速100kmを超えたのはこの50馬力エンジン搭載のニューポールである。
アンリ・ファルマン1910年型と性能を比較の結果、モーリス・ファルマン1912型がはるかに優れていることが
判明する。そこで臨時軍用気球研究会は最新機種、モーリス・ファルマン式4号機を複数機装備することを決定
する。日本で「ちょんまげ」の異名をとったこの型は長澤、沢田両技師により改良され、モーリス・ファルマン
式6号機(モ式6号型)の名で呼ばれることとなる。1913年から1921年までの間に、東京小石川砲兵工廠の飛行
機が200機製造されることとなる。
対抗意識をあらわす陸軍と海軍
日本帝国海軍はライバルの陸軍に遅れをとるわけにはいかない。そこで1911年夏、イギリス国王ジョージ5世の 戴冠式に列席する島村速雄海軍中尉と同伴将校をフランスに立ち寄らせることにする。著名な飛行機製造家、モ ーリス・ファルマンが一行をヴェルサイユ宮殿そばのビュックに自らが経営する飛行学校に案内し、自身が操縦 桿を握る最新型飛行機に島村中将を乗せ、初飛行へといざなった。翌年、日本帝国海軍は金子養三大尉をフラン スのアストラ飛行学校に派遣し、飛行船と飛行機の操縦技術を学ばせる。同年7月25日、彼はフランス・アエロ・ クラブで飛行操縦士免許を取得する。さらに彼は海軍のために日本で始めてルノー70馬力エンジン搭載のモーリ ス・ファルマン複葉水上機(モーリス・ファルマンの機体とアンリ・ファルマンのフロートをあわせたもの)4機を 発注する。ちなみにアンリ・ファルマン(1874-1958)はモーリスの兄である。これらの水上機は追浜の基地にて披 露され、1912年10月6日、金子大尉は日本で初の水上機飛行を成功させる。(高度35M,飛行時間15分)。海軍は 翌年(1913)梅北、小浜両大尉を、1914年には井上二三男大尉をフランスに派遣する。3人の将校が練習機に使用し たのはドゥペルデュッサンである。数ヶ月後、海軍は単葉機ドゥペルデュッサン1機をフランスに発注している。 1912年11月、2機の飛行機が所沢・川越周辺で行われた陸軍の大演習に初参加する。1機は徳川大尉の操縦するブ レリオ12型、もう1機は木村鈴四郎中尉の操縦する会式1号である。1912年11月17日の大正天皇所沢飛行場行幸の 際、フランス製の飛行機が徳川大尉より紹介され、天皇陛下はことのほか感銘された。
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滋野清武 《第一次大戦の名撃墜手の肖像》 明治45年(大正元年―大正7年)
1882年(明治15)年10月6日、陸軍中将滋野清彦男爵の三男として名古屋に生まれた清武は父の跡を追い、陸軍幼年 学校に入校する。だが病弱のため幼年学校を中退し、上野の東京音楽学校でのより静かな勉学の道を選択する。同 校を優秀な成績で卒業した清武は、ヨーロッパで音楽を続けようとし、1910年(明治43)年パリに留学する。日本 に残した若妻の突然の死にうちひしがれた彼は再び生き方を変え、より危険な道に進もうと決意し、イッシー・レ・ ムリノーのヴォワザン飛行学校、次いでジュヴィジーのドュマゼル・コードロン飛行学校で飛行術を学ぶ。滋野清 武は1912年2月19日、徳川好敏に次ぎ日本人で2番目に、ただし民間人としてフランスのアエロ・クラブの飛行操縦 免許を取得する。ほどなく彼は著名なフランス人技師、シャルル・ルーの助言を得て1912年自ら飛行機を造り「わ か鳥」と命名する。初飛行は1912年4月26日イッシー・レ・ムリノー飛行場で行われ、時速115kmに達する。同年 5月、家族より呼び戻され、清武は自機とともに8月に帰国する。翌1913年実演飛行を何度か行い大いに注目を集め、 同年4月20日日本で45分間の飛行中に高度300Mの記録を樹立する。1914年4月航空機材買い付けのためフランスに戻 るが第一次世界大戦勃発。そこで彼はフランス陸軍に志願し連合軍の一員としてドイツと戦うことを決意する。19 14年12月24日、彼はまず外人部隊第1連隊に入隊後、ポーの飛行学校に編入される。ここで優秀な成績を収め早く も大尉に任官される。5ヶ月後には飛行士として前線に送られ、MS,12等さまざまな飛行隊に所属し、1915年5月には V.24中隊でヴォワザン式大型単発機に搭乗し偵察任務に就く。1915年7月30日、彼は陸軍の戦功録にこう記録され、 表彰される。
(これ以降は電子本「日仏外交史は隠されていた」をご覧ください。)