ベルタンの設計した日本海軍の軍艦:日露戦争で活躍した軍艦橋立
日本海軍を育てたエミール・ベルタン
(以下、クリスチャン・ポラック氏によるベルタンのプロフィールとその業績)
技師・発明家、ベルタン、ルイ・エミール・ベルタンは1840年3月23日、ピエール・ジュリアン・ベルタン
とアンヌ・フレデリック・デルミエの息子としてナンシー(ムルトエ・モゼール県)で生まれ、青少年期
をそこで過ごす。18歳でパリの理工科学校(エコール・ポリテクニック)に合格、同校を卒業して海軍造
船学校に進む。1860年から1862年までパリの海軍造船応用学校の学生技師となり、次いでシェルブール軍
港に配属され1881年までそこで過ご−れ途中当地を離れたのは研究のためのイギリス派遣(1879年)と数
度の艦上勤務時のみで、それ以外の20年近くをこの軍港で過ごしている。この間の彼の活動には目覚しい
ものがある。ベルタンはいくつもの艦船の建造を監督し、さまざまな船舶の設計に加わり、数々の学術論
文の執筆にたずさわる。それらの論文のいくつかは科学アカデミーから賞を授与されている(船舶の換気
装置の改良に対して1864年プリュメ賞)。なかでも後に広く一般に受け入れられ規範理論となったものに、
海の動き、うねり、船舶の横揺れの法則、非装甲艦の戦闘防御、隔壁、船舶の安定性等についての論文が
ある。
日本が明治以降、維新からそれほど年月が経過していないのに世界的な戦争に突入して行ったことを、か
ねがね不思議だと思っていたが、すべてフランスからのサポートがあると判った。日本陸軍は軍事顧問で
あったシャノワンヌ大尉やブリュネ中尉(顧問団総勢十五名が慶応三年一月に来日)たちの貢献により実
力をつけていた。では日本海軍はどうだったのか?実は日本海軍を基本から叩き上げたのも(初期には英
国の海軍訓練もあったが)やはりフランス人であった。日本人留学生にシェルブールの海軍造船学校で指
導したのはフランス海軍の軍人ベルタンという人物であった。ベルタンは1886年来日後、海軍の軍艦の設
計を手がけ八重山(1800トン、21ノット)高雄(以下重量等省略)橋立、厳島、松島、千代田などをフラ
ンスから部品を取り寄せて完成させた。
ではベルタンはいかなる人物であったのか?
またベルタンは二重オシログラフと平行竜骨の発明者でもある。1870年の普仏戦争の際、彼はシェルブー
ルに大砲の生産設備を整え、カランタン戦線の防御を確立した。1875年、彼は座礁したイギリス大型客船
「パスカル」を離礁させて注目を浴びる。シェルブール海軍造船学校ではいくつかの教科を担当し、ヴェ
ルニーとティボーデイエによって横須賀から送られて来た日本人学生、桜井省三(1854−?)辰巳一(た
つみはじめ)(1857−1931)、若山鉉吉(わかやまげんきち)(1856−1899)らを指導している。趣味と
して彼は1869年に法学の学士号を取得後、1877年、カーン大学で「不動産の占有」と題する法学博士論文
の審査を受け、見事な成績で合格する。1881年、ベルタンはブレストの海軍造船所技師に任命され、そこ
で軍艦の船体の建造技法をいくつか完成ざせ注目を浴びる。その技法とは海中爆発に対する軍艦の強度を
高める「防水区画」による保護システムで、すでに13世紀頃から中国人たちによって用いられていた方式
である。この方式の原理と応用はその後すべての軍艦によって採用されることになる(1896年には、220隻
の軍艦がこの方式を用いている)。ベルタンは自ら設計した巡洋艦「スファックス」においてこの新技術
を試し成功をおさめる。彼はまた高速巡洋艦「ミラノ」を建造させ、当時の速度の世界記録を樹立してい
る。
ベルタンは1886年に日本に派遣され、1890年に帰国すると一等技師としてツーロンに着任する。次いで艦
船建造の総監督技師としてロシュフォールに、さらに海軍造船応用学校の校長としてパリに赴任、パリで
は機関とボイラーの講義を行っている。そして最後に、海軍省の機材局長兼艦船建造技術部門の長となり、
1895年から1905年までの10年間これらの職を全うした。彼は1914年以前の艦船建造計画において数多くの
戦艦と巡洋艦(パトリー(祖国)型の戦艦「アンリ四世」、ジャンヌ・ダルク型の巡洋艦数隻)の設計を
行っている。海軍技師の職にあった期間を通して、ベルタンは120隻の軍艦の設計図を作成することとなる。
その中には1892年の14,000トン装甲艦1隻と2隻のイタリア軍艦、「イタリア」と「レバント」が含まれ
ている。長い論争の末に彼は小菅ボイラーを認めさせ、また彼が長年推奨してきた防水区画システムを海
軍に採用させることに成功する。
彼の理論科学の業績に対し1903年に科学アカデミーの扉が開かれ、彼は地理および航海部門の会員となる。
世界的に高名な学者として彼は研究を続け、数多くの論文を完成させる。それらは機関とボイラー、流体
力学、魚雷などに関するもので、その総数は40件以上に及ぶ。最後に、彼は船舶運動性能の科学的研究の
基礎を築き、模型による研究を行うための試験水槽の創設を認めさせる。
ベルタンは1905年3月に退役を許され、私人として以前に劣らず活動的な第二の人生を送る。その後の20年
間を個人的な仕事や外国旅行、海軍の宣伝普及のための講演会にいそしみ、数多くの連盟(リーグ・フラン
セーズの設立者・会長)や、愛国的、科学的あるいは慈善的な協会の会長職を務める。また1907年、委員長
としてボルドーの海洋博物展を組織した。その後、パリ日仏協会の創設者の一人であり、1903年から1924年
まで会長を務めている。1922年には科学アカデミーの会長に選出され、1924年10月22日、シェルブール(マ
ンシュ県)近郊に位置するラ・グラスリーの自宅で亡くなるまでその地位にあった。この技師・発明家を記
念して、1933年5月9日に進水し1935年5月17日フランス海軍に就役した6,000トンのフランス巡洋艦は「エミ
ール・ベルタン」と命名された。(史料:「筆と刀」在日フランス商工会議所発行)
著者クリスチャン・ポラック
株式会社 セリック創業社長