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さい
最近、児童のイジメが原因の自殺が頻繁にあるが、どうして学校側に責任を追及する
のか不思議に思っている。それが学校側の責任である、と誰も証明できないのではな
いだろうか。児童が育つ背景に何か原因があるのを見過ごしているのではないのか?
日本人はとかく皆と同じに考え、ほかの人々と協調することを方針として児童をまと
めていた歴史がある。戦前から日本人は皆、一様にほかと足並みをそろえることが最
善とされていた。イジメはDNAの中に「足並みをそろえない者への冷遇」として遺され
ていたために起こったことではないのか?と思われる。歩調に合わない者が疎外され
るような空気がいつの間にか生まれていたのではないのか?個性のある者、少し優れ
ている者、ほかと関わることをあまり好まない者、独自のスタイルで生きる者はほか
から意識的に疎外され、イジメられる。村八分で代表されるこうした構図ができあが
ったのは、ひとえに個性のある者や並外れた才能、優等生が嫌われて、平均的な者が
好かれる、という為政者に都合の良い体制からの習慣でもある。戦前戦後には自殺す
る児童は少なかった。それは父母がしっかりとした教育をしていたためではないだろ
うか?筆者は母親に殴られたこともあり、また家出して死にたいと思ったこともあっ
た。だが、母親は毅然として、教育の方針を曲げなかった。なおかつ厳しさの中に類
稀な優しさと溺愛に近い愛もあった。両極端の中に本当の愛があったので、強い自殺
願望などは芽生えなかった。戦前は「もし親に逆らう子であればいらない」式の教育
が幅を利かせていた。厳しい教育を家庭で実践する父母は現在いるのだろうか?テレ
ビの影響もあって、自殺のスタイルをまざまざと報道するのも自殺を誘発させる元だ
と思えるが、こうした自殺への対応や防止対策は、まず父母の姿勢の再教育ではない
か、と思う。現在子供たちを家庭で見守る父母は大抵甘やかされて育っている。厳し
い父母の元に育っている父母は少ないような印象だ。そうした父母が家庭でできなか
ったことを学校や教師に任せること自体奇妙なことだ。二言目には「教育委員会が学
校が教師が」と槍玉にあげることこそ、児童への溺愛に繋がってしまう。ともあれこ
うした少数意見は、排除非難される運命にあるのかもしれない。日本人はとかく多数
決を尊重する。少数派の意見は弱い。大人の世界には明らかにイジメを支えているよ
うな体制が幅を利かせている。解決策は、父母がイジメが起こっていることを知った
時に、よきアドバイスを子供にするべきで、学校側や生徒を追及するのは、おかしい。
社会に出れば数々の苦難がある。学校はすでに社会なので、一番の鍛錬の場。そこで
育つことが児童の使命なのである。イジメは自己の精神鍛錬の最適なる道場であるの
を父兄は知るべきであり、児童を温室育ちに置くことは、あらたな被害者を作るだけ
だと思う。もし自分が母で、子供がイジメられていたら、まず空手か柔道、ボクシン
グなどの鍛錬する道場に通わせ、精神的にも肉体的にも強くなるように指導し、イジ
メた児童に対する対応を「今まで習った技は暴力として絶対使わず、相手に言葉でき
ちんと話をつけ、勝って帰ってきなさい」と言うだろう。肉体的に強くなれば、相手
に対する対応にもその「気」が漂う。つまりイジメと闘える力は「気」を養うことで
培われると言いたい。ともあれ「自分は自分、ほかからの揶揄やからかいイジメに我
関せず」を貫けるのは親の姿勢に寄ると思う。サラリーマン家庭の児童が一番イジメ
の被害者が出やすいような印象がある。根性、気迫、粘り強さ、雄雄しく生きて行く
ための力は、親が教えなくて誰が教えるのだ、と言いたい。イジメは多数決の時代の
副作用としか思えない。愛する子を守るのは、親であり、また子供自身が自分を守る
ように親がしつけることが肝要であると言いたい。
最終更新日2006年10月17日