ドクター・キムラの部屋「心のふるさとはへその下」  心とは、妙なものである。片時もじっとしていない。常にころころ変るから、こころとなったといわれる。お経の文句にこういうのがある。「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」   直訳すると「まさに住するところなくして、その心を生ずべし」。わかりやすく簡単にいうと「心は一時も停まらせず、サラサラ流し、次から次に生じるままに任せよ」となる。  この文句は、心の真実(ほんとう)の姿を表現していて興味深い。  というのも、漢方では心身一体、つまり心の動きと身体の作用は一事にみるから、もし精神(こころ)の状態がどこにも澱みなくサラサラ流れているなら、同時に血液循環も良好ということである。  漢方の古典には、精神は五臓の所蔵なりと教えている。すなわち、心が怒れば気が逆上して言葉が激しくなり、身体は青くなって身震いし、肝を壊わすとある。また、心が泣けば、言葉は涙にむせび、肉体は萎(な)え、肺を傷(や)ぶる、心が笑えば、言葉は朗らかになり、手足は踊り、心臓の機能は円満円滑になる・・・。と、このように心の持ち方によって、それが肉体にあらわれ、ひいては臓器にまで及ぶと教えているのであ る。 (臓)(色)(部位)(五志) 肝−−青−−−自−−怒 心−−赤−−−舌−−喜(笑) 脾−−黄−−−口−−憂、思 肺−−白−−−鼻−−悲 腎−−黒−−−耳−−恐、驚  心がどこにも澱みなく、執着なく、サラサラ流れ、健康で明るいと、血液は弱アルカリ性(Ph七・三五前後)になり、全身の細胞(全盛時は約六十兆個になる)は活性化され、外部からの侵入者(細菌等)の繁殖も受けつけない免疫力を持つ。  そういった意味では、心とは、常に宿を持たず渡り歩く旅人のようなものである。が、ただ宿を持たない旅人といっても、この旅人にも故郷(ふるさと)はあるはずである。でないと、ただの無頼になる恐れがある。つまり、あまりにも心が開放され過ぎると、精神状態がおぼつかなくなり、自ら暴走して破滅を招く結果となる。特例だが、アルコールの作用で酩酊しで気が大きくなり、失敗するのが、いい例だ。  だから、心にも帰るべき家庭や故郷は必要なのである。そういうものがあれば、自らを節制し、心をコントロールするからである。そこでもう一度、前記のお経の文句を考えてみよう。「・・・而生其心」前半の句はいいとして、後半の「・・・その心を生ずべし」の下りで、生ずべしというのだから、心はどこからか生まれでくるといっている。 もともと漢方では「陰は陽を生ず、陽は陰を生ず」といって、全ての物は陰から誕生することになっている。つまり故郷が陰である。  身体にも臓器にも陰陽の区別があって、例えば身体の上部は陽、下部は陰という具合である。また臓器では、特に心臓は陽、腎臓は陰と配当される。ということは、身体では腎臓が全ての故郷なのである。  少しむずかしくなるが、漢方の古典の「難経」にこう記されている。「八の難に曰く、諸々十二経脈は皆生気の原に係る。謂る生気の原とは、十二経の根本を謂うなり。腎間の動気を謂うなり。此れ五臓六腑の本、十二経脈の根、呼吸の門、三焦の原、一には守邪の神と名づく。故に気は人の根本なり。根絶するときは茎葉枯る」  ちょっと長いが、これを解釈すると生成発育の根源的な力は、腎間の動気が元である。腎問の動気とは、臍下丹田に打っている動気である。この動気は左右両腎に存する先天的エネルギーで、飲食物によって養われた後天的エネルギーや、呼吸によって得たエネルギー等の源(みなもと)である。そして、内外の邪気から守って人間を病気にならないように防衛作用をする。これが弱まったり、絶したりすれば、全ての器官の機能は止って、死亡してしまうと記しているのである。  とにかく、精神の作用も、腎臓の先天のエネルギーを受けてのことである。漢方では、心も血液も一日の働きを終え、夜は脾(現在の膵臓)に帰って休むとされている。一家の主人が夜、家庭に帰って寝るのと一緒である。ということは、時々は全てを忘れさせ、全面的な心の休息を、臍下丹田ですることが大事なことである。心の故郷はお臍(ヘそ)の下にある。