ドクター・キムラの部屋「息は生きに通ず」  「生きのよい魚」「粋な人」等という。この「生き」「粋」は、我々が健康であれば、四六時中、無意識に行っている息から転義された言葉であるといってよい。まずこの言葉を「広辞苑」で引いてみよう。  いき「生き」1)生きること。2)いきいきしていること。生気。新鮮さ。「・・のよい魚」  いき「粋」名。さっぱりした気立てで、あかぬけがし、色気があること等意気の転義。 いき「意気」名。あふれる元気。気概。何かしようとする積極的な心。名ダナ→いき(粋)得意で元気一杯な様子等々。  いずれも生命に必要な、いい意味での活動的な状態を表わしている。特に生気、新鮮さという言葉は、それ自体がいきいきと息づいているかのようなイメージがある。  漢方では、息は呼と吸に分けられている。西洋医学は肺の一代謝作用としで呼吸を扱う。つまり簡単にいうと、鼻で酸素を体内に取り入れ、肺でガス交換をし、口から炭酸ガスを体外に排出するという生理作用だ。ところが漢方では、この呼吸が五臓六腑に直接係ってくる。正に生命(いのち)の根元となるものだ。  漢方の世界は実験的ではないが、より具体的である。漢方医が脈を診、吸(いき)を窺うのは、実は生気(いき)さを見ているのだ。皮膚の状態、肌(き)肉のつき具合、骨の良し悪し、みな呼吸の過不足と多いに通じている。そういった意味で、病人は多かれ少なかれ、新鮮さを喪っているものだ。  漢方医が、湯液や針灸で治療をするのは、つまるところ呼吸を整え、五臓六腑を調和し、病人が新鮮さを取り戻すよう施しているといってよい。  顔色が好くなった。皮膚の色つやが出てきた等は皆、十分に呼吸が行われている証拠なのだ。だから少なからず人間が新鮮であるということは、呼吸が十分であることと同義なのである。  そこでもう少し具体的に、呼吸と五臓の関連を説明してみよう。  漢方の古典に「難経」という漢方医にとっては教科書みたいな本がある。そこに、こう記されている。「四の難に曰く、呼ば心と肺とに出でで、吸は腎と肝とに入る。呼吸の間に脾は穀味を受く。其の脈、中にあり」  これを簡単に解釈すると、心と肺の臓は上部にあり、腎と肝の臓は下部にある。これと呼吸の関係を見ると、呼気は上部より吐き、吸気は下部に吸い込むように感じる。この自覚感は経験的なものである。したがって平人の動(脈拍)は、呼気の時の二動(二脈拍)は心・肺に応ずるものであり、吸気の時の二動は肝・腎に応ずるものとされる。  呼吸の間にもう一動があって、一息五動(一呼吸の問に五つの脈拍)が平脈とされる。この一動は脾(脾はいまの膵臓)に応じるものである。脾と胃は中部にあって五穀、五味つまり種々な食物を受けてこれを消化し、諸臓腑に授けるのでる。  先に経験的と書いたが、病人を治療してみると、このことがわかる。例えば心臓病の患者は、吐く息が困難であり、腎臓病の患者等は、吸う息がおぼつかないという自覚がある。これがはなはだしくなると一呼吸の間に四動になり三動になるという状態が起こる。つまり脈拍が少なくなるのだ。この逆もある。つまり一呼吸の間に六動、七動というもので、脈拍が多くなる。これらは病脈で、当然、生気(いき)から外れている。  ちなみにジョギングをした直後などは、呼吸が早くなるが、脈拍も早くなり、その人が健康であれば一息五動の関係が保たれている。我々が疲労した時、呼吸を取り戻すだけで、気分が楽になることはよくある。つまり生気(いき)いきしてくるはずである。そこで、出る息、入る息、一息一息大切にしたいものである。そして、誰でもがいきいきとなりたいものである。