風はどんな色をしているの?  唐の時代、劉禹端が雲居山で雨乞いの祈祷をし、その効果を得たことがあった。  その時、劉禹端が雲居山の道 禅師に尋ねた。 「雨はどこからきたのでしょうか」 禅師は答えた。 「あなたの尋ねた、その問処からきたのだ」  それを聞いて劉禹端は早合点し、喜んで低頭した。また、西禅寺の平禅師は、役人と共に座って話しをしていたおり、急に「風はどんな色をしているか」 と尋ねた。役人は答えられない。  禅師は傍らに座っていた僧に尋ねた。その僧は着古した衣を摘んでいった。 「街で繕ってもらいました」と。  端から思わせ振りな話で恐縮だが、この二つの話の回答には、天と地ほどの隔たりがあって面白い。一つは、劉禹端が早呑み込みをして本当のことなぞ露ほども分かっていないこと。もう一つは、この僧がすでに悟りの眼を具えた人物であることである。いらぬお世話かも分からぬが、道を学ぶものが、この二つの消息をスラスラと分かるようなら、いかなる事柄、いかなる存在にもくらまされる事なく、日日その場その場に応じて自由に対処することができるというものである。  ところで、話は少し変わるが、この間久し振りに、或る禅会に参加した折り、耳にした話。 師「まず神仏に実際に会ってみることだ」 大衆「しかし、神仏に出会うとはどういう事ですか?神社仏閣に参詣して、手を合わせることでもいいのですか?」 師「それも確かに一つの方法である」  私はこの話を聞いて、内心、教示すると言う事は何と難しいことかと改めて嘆息した。というのも、神といい、仏といい、菩提といい、真如といっても、それらは皆、一真実の異名に他ならない。しかも、さらに言及すれば、それは、このわれわれ自身の「心」の別名に他ならないのである。その証拠に、華厳経に日く「三界は唯心の所造なり、心外に別法あることなし」と。  すなわち、一切の影像は唯心の所現であり、この客観の現象は皆主観なる心より発展し来たる影像、とするのが華厳経の所説である。と言う事は、もうすでにお分かりのように、神仏に出会うとは、個個の真実の心に出会う事といったほうが適切である。禅門では、これを見性といい、自己本来の心に徹見徹底した人と呼ぶ。ということで、関連公案を一則、 禅宗五家の一つである法眼宗を開いた法眼文益禅師(八八五−九五八)は若い頃は律宗の坊さんだった。それのみか儒典も学び、文章詩歌にも長けた才能を持っていた。しかしある時、玄機一発して今まで学んだすべてを抛って禅の修行に志した。紹進、注進という同僚と三人で行脚し、雪に降り込められてミン(福建省)の地蔵院に宿泊した。小さな庵室と思ったそこの和尚が地蔵桂探であった。地蔵和尚は雪峰門下の玄沙師備禅師の法嗣である。玄沙師備といえば当時の禅界で誰知らぬ人なき禅の第一人者であったから、三人ともたちまち地蔵和尚にやり込められてしまった。  さて、雪が晴れてご一人が地蔵院を出立する段になって地蔵和尚、門まで送り出てまた問答を仕掛けた。  「三界唯心、万法唯識というがそれでは一体、この庭石は心の中にあるのか、心の外にあるのか?」  法眼がすかさず「心の中にあります」と答えると、  地蔵和尚「お前さん、この重い石を抱え込んでそこら中、行脚して歩くのカイ。ご苦労なことですナ」  と皮肉った。法眼もこの和尚ただ者でないと見て、地蔵院に止まり修行を続け、遂に地蔵和尚の下で大悟徹底して、その法統を継ぐことになるという次第。  唯識とか唯心というと「心」に捕われてしまう弊害が伴いやすい。解り易くいえば、唯識とは「心」という面から物事を説明するだけのことではあるまいか。  因みに、ここで少し唯識について知っている限りを注釈しておこう。仏滅後、九百年頃、無着菩薩の出世あり。菩薩は北インドの健陀羅のバラモンの子として生まれ、初め化地部において出家し、後、禰勤菩薩によって空義を悟得して、更に中インド阿踰遮国の講堂において、禰勤菩薩を請し、夜間一人唯識中道の義を聞き、昼間自らこれを布演し、爾後、この法門を弘通した。これすなわち、大乗頼耶縁起の法門である。  無着の内弟に世親菩薩あり。菩薩は初め一切有部において出家し、倶舎論を製してその造詣の深さを表す。しかし、いまだ大乗を知る機縁はなかった。後、阿踰遮国に遊び、無着と会見し、一夜、無着の弟子が十地経を誦するのを聞いて初めて前説の浅薄であることを知った。そして後、無着に就いて、大乗甚深の妙法を諮問し、唯識の法門を研精し、無着の大乗論を釈し遂に唯識三十論頌によって、組織的にその法義を編纂した。爾来この書の研究すこぶる盛んになり、諸家のこれに註するもの少なからずという。  その後、幾多の変遷を経、護法論師出る。護法論師は、仏滅後一千一百年、南インド達羅毘奈国の大臣の子として生まれ、故あって出家し、業成って後、中インドにおいて弘道し、当時最も高名で、世親以後一種新式の説明を発揮した。性相別論というのが、即ちこれである。二十九歳になって菩提樹下に隠れて、遂に出なかったという。寂する年は三十二歳。後の法相宗は即ち、この人の説を祖述するものである。護法面授の弟子の中には那燗陀寺の戒賢論師がいた。これ唐の玄奘三蔵の就学の師である。  玄奘は陳留の人。天資聡明幼くして出家し、諸徳を歴訪して、「毘曇」「囁論」「涅槃」の深旨を極め、唐の太宗の貞観十九年長安に帰り成唯識論を編纂した。これは後、法相宗教義の本典となった。 玄奘の門下林の如く、三千の門徒、七十の達者と称せられたが、慈恩大師最も傑出し、唯識の玄旨を伝え、成唯識論述記等を著して、法相の宗義一時に掲がった。その故に、法相宗は、慈恩大師を以てその初祖となった。  法相宗は、教相と法相と親心との三門を以て成り、これは天台の、教観二門を以て成るものと区別するものである。その意図するところは、釈尊一代の説教を教相門に分類し、他家に対して自宗の高砂であることを現すことにあった。所謂教相判釈がこれである。  少少長くなって誠に恐縮だが、もう少しお付き合い願いたい。  さて、教相判釈とは、諸大乗教に於いては、全て釈尊五十年間の大小乗の説法を系統的に分類し、自宗所依の教典の教義を最高として、他の教典教義は、これに至る方便楷梯として、その浅深高下の位置を判定するものである。華厳宗賢首大師の五教判釈、天台宗智者大師の五時八教の如きは、皆これである。    今、法相宗に於いては、仏一代の説教を、有、空、中の三時に分別して漸時仏陀の本懐を示すものとしている。即ち、第一期有教、第二期空教、第三期中道教の三時教である。この有空中の三大区別は自ら教義の浅深疎密の秩序を示し、三時の説教は、小乗有教より大乗空教に進み、更に大乗中道に赴くを表している。 第一時・・・有教・・阿含経等・・我空法有・・小乗 第二時・・・空教・・般若経等・・我空法空・・未了義教

                      大乗 第三時・・中道教・・解深密経等・非有非空・・了義教  思うに仏陀は初めバラモン等諸学者の唱導する実我存在の説を打破するために、暫くの間万有の存在を許容し、仮我を組織する所の法は有であると方便をし、実際は、実我は空であると、我空法有の宗を説明した。  これは即ち第一時布教であり、阿含教等に説く四諦の説法の如きはこの類である。  然るに、二乗の人は我空を証するも、法有に執着して、心外に実法あると誤認するのである。それ故に、仏陀は更に進んで、一切皆空の法門を説いて真俗二諦の教義を設けて、俗諦には、心境倶有を許すも、真諦には、心境倶に空であると論破したのである。これは即ち第二時空教であり、般若経、維摩経等の所説はこの類である。  然れども右を指せば右に偏し、左を示せば左に傾いて中道を保つ事が出来ないのが凡夫二乗の常である。故に一切皆空の説を聞いては、心外の諸法だけでなく、内境をも空と思い込む。この様な偏局を打破する為に、遂に自証の本懐を顕披して、識は有にして空に非ずと説き、第二期の空執を斥け、境は無にして有にあらずと教えて、第一期の有執を破り、以て非有空中道真実の義を宜説した。これは即ち第三時中道教であり、解深密経、華厳経等は皆この主旨である。  三時教の内、初めの第一時と第二時とは、未だ義理を完うしていない教であって、偏有偏空に止まって相対思議の域を越えてはいない。故に解深密経には、これを有上(相対)有容(不完全)の教えと呼ばれている。これに反して、第三時の説法は、諸法に超越して、最も深遠にして絶対不可思議なる中道真実の義を顕説し、最極円満の教であるが故に、解深密経には、これを「今世尊ノ転ズル所ノ法輪ハ無上(絶対)ナリ無容(完全)ナリ是レ真ノ了義ナリ」と説明している。故に前の二時を不了義教といい、後の一時を了義教と称しているのである。   これは一言でいえば、三時教は漸進的に人空より法空に侵入し、更に真実に非有非空の中道にいたらしめんためのものである。然れども化益を蒙る衆生の方面からいえば、その機根には頓機と漸機とに二類がある。頓機の衆生は、小乗教に入らないで、直ちに大乗に悟入する。これを直往大乗の人と言う。漸機の者は初めて小乗に入って小行を修し、後、廻心して、大乗に転入する。これを漸入大乗の人という。頓機の衆生に於いては、一代の教説は、悉く大乗数であると了解し、たとえ有数を聞いても、中道の有と解して、空教を聞いても、中道の空と了解する。従って今三時教を論ずるのは、小乗より漸時大乗に転向する漸機の者に就いていうのである。 と、まあ、随分長々と書いてしまったが、最後にいま幽かに憶い出す事は、ある著名な禅僧が、禅は、唯識か、中道かと論じていたことである。