初関よこんにちわ  初夏ともなれぱ武蔵野は、鬱蒼とした樹々の緑で覆われ、ここ井ノ頭公園の林も緑蔭を落し、この頃の暖かさは気のない、ポカンとした風を運んでいた。休日には行楽客で賑わい、池の水鳥もスイスイと気持ち良さそうに泳いで、若いアベックもボートで青春を語っている。私は池の周囲に設えてある木製のベンチに腰掛け、斎座の後の休憩をとっていた。そして、池の水面に目を置き、ぬるんだ流れを見るとはなしに見ていた。ただ頭の中は、初関の公案を拈提することで一杯だった。やがて、昼座の刻を告げる板木の昔が林にコーン、コーンと響いた。私は、ベンチを離れ道場に戻った。  と、これは私が武蔵野般若道場で、初関を許された時の体験談である。  そこでまず、釈迦牟尼会般若道場の仏法を説明すると。それは遡れば禾山玄鼓老師に源泉する。禾山老師は白隠より六代目の妙心寺越渓の法を嗣いだ傑僧で、つとに般若を挙提するとともに在家仏教を重視し、かつは教学にも精しく、自力を他力、信位と証位に一線道を通じて、全仏教の統一を目指す等、きわめて独創的にして悠大な構想のもとに溌活自在な宗教活動をされた方である。  その法脈、他の系統は皆すでに絶えた中にひとり戒光−定光−光龍と嫡伝した一脈のみ現に釈迦牟尼会般若道場に伝っていた。  とくに禾山の意図した構想は、法孫の定光老師によって釈尊立教の本旨を原点として、より端的明決に開示宜命せられるとともに積極的に実践実施せられ、ここに一切の寺院宗派から独立の新鮮なる在家教団が創立されたのである。  そして、その道場は井ノ頭公園に隣接した閑静な林の中にあって坐禅を組むのに最適な環境を作っていた。  果して、私がこの道場の門を初めてくぐったのは二十数年前のことであった。それは二十代も後半の頃で、散々、精神の遍歴を重ねた挙句のことだった。私は暫くして、武蔵野般若遺場の師家、苧坂光龍老師に相見の礼をとった。私はその日の夜座ではじめて喚鐘場に並んだ。  喚鐘場とは、廊下に並んだ参禅者が打つ鐘のことである。  順番がくると、隠寮に入室を待つ老師にこの鐘の音で合図を送り、隠寮に赴くのである。  私はおもむろに廊下を渡り隠寮に向かった。やはり相当緊張しているせいか、廊下を歩く足がおぼつかない。なにか雲の上を歩いているみたいだ。それでもやっと私は距離のある渡り廊下を過ぎ、隠寮の前に立った。私は先輩に教わったとうり礼拝をして襖を開けた。中に入って、もう一度礼拝して、着坐した。光龍老師は茶の衣を着け、結跏趺坐していた。  私は再度礼拝して、顔を上げた。老師は、ギョロと、私を一瞥した。私はそれでいっぺんに縮み上がってしまった。後で分かった事だが、老師は義眼だった。  私は意を決して、名前を告げた。そして、なにがしかの挨拶の後、老師は数息観の呼吸法について親切な説明をした。 「我々は普段、ピストン運動で呼吸をしていますが、入る息出る息を綿密に工夫していくと、段々円運動に変わってきます。それが完全呼吸です。どうかしばらく、それを行ってください」  この日から私は、老師から与えられた数息観を真剣に実行した。  夜の浅い内から翌日の朝方まで、私は出る息を鼻から細く長く吐き、入る息は自然に任せ、一、二、三、と、十まで数え、又、一に戻ることを何度も繰り返した。最初はとても雑念が交じり思うにまかせない。それを強情的努力で捻じ伏せ、捻じ伏せ頑張った。ただそのうちに、息というものが潮の干満のように大自然のはたらきであることが分った。  そして尚も練り究めていくうち呼吸が深く、抵抗のないものに変った。気が付くと、呼吸が非常に少なくなっていた。半年経った頃の入室で老師は、「息は一分間で何回ぐらいになりましたか」と、訊ねられた。「四回ぐらいです」と、私が応えると、「そうですか。それでは次に、『無字の公案』をやってみてもらいましょう」と、提示された。この『無字の公案』は、臨済禅の専門道場では学人に初関の公案として与えられるものである。普通、これで二、三年骨を折ると教えられた。  ここで因みに、趙州狗子(本則)趙州和尚、因みに僧問う、狗子に還って仏性有りや也た無しや。州云く、無。  私はこうして、この公案と来る日も来る日も取り組むことになった。  当初私は気楽な気持ちで入室を試み、私のそれまでの見識で、見解を呈した。  が、当然の如く、老師は私の見解を許すはずがなかった。その度に、虚しく、無情な鈴が振られた。そして、瞬く間に、一年が経過し、春になった。朝座の独参の時、外でやたら猫の盛りの時の声がする。  坐っていた私はその鳴き声がうるさく坐が集中できずにいた。私は仕方なく直日に何度も警策を打って貰っていた。  だが、そのうちに、どうもおかしいと気が付いた。どう聞いても、あれは猫の声でない。耳を澄ますと、それが確かに隠寮の方から聞えてくる。腹の底から絞るような呻き声。 「ムー、ムー」  私は、はっと気がついた。いやはや、そうだったのか。あれは「無字」の見解を呈する時の声だったのか、と。私はそれで、公案と一枚になるという意味を理解した。次の独参から、私も老師の前で、「ムー、ムー」と一枚になってみせた。  がしかし、あにはからんや、老師はそんなことで許さなかった。その度に、鈴が振られ、私はすごすごと引き下がった。  ここで又私は、数ケ月四苦八苦した。そして、その繰り返しが続いたある時、老師が、「無字の証拠をみせよ」と、言われた。  私は、ハタと詰まった。  無字の証拠をみせる。それは何のことか。私はその時、そんな難題を解決するのはとても不可能に思えた。  仕方なく私は、相変わらず老師の前で、「ムー、ムー」を繰り返した。  そして、透過しないまま、又年を越した。  老師は次に、「無言の無字を言え」と、つきつけた。  だが、無論、私には全くお手上げだった。  無言でもっと無字を証明する。  その証明の形式の手掛りすら分からない。  私はこれで全く身動きできなくなった。焦る心のかいもなく、又、数ケ月が過ぎて丁度、十二月の臘八接心の持期がきた。  私はその接心でも性凝りもなく、入室を試みた。そしで、接心三日目の事だった。  入室で老師が「また、そこに落ちた」と、言われた。  私は「あっ」と思った。  私は無心に見解がでた。  老師はそれを聞いて、「それでいい」と、うけがわれた。  私はやっと、無字を透過した。その時、私の頭に浮かんだ事は、西田幾多郎の『絶対矛盾の自己同一』という言葉であった。 『有言と無言』  考えてみれぱ、この二つは絶対に矛盾し、矛盾する事で同一である。私はこの時始めて、公案の面白味を味わった。  備考:  禅の書にも〃有無ニ落チズ、誰カ敢テ和セン〃(有とか無とかに拘ることがなけれぱ、宇宙間を独立独歩できる)とある。